good wordsの最近のブログ記事
2010年6月 3日
”デザイナーは、あらゆる分野をデザインしなければならないのです。”
「デザイナーは何も特別な存在ではありません。他社と同じように、社会に対する義務を背負う一市民なのです。我々の役割は、技術や科学的実証など一般の人には何回な内容を、詩のように美しく、誰もが理解できる形式にかみ砕き、デザインとして端的に表現することです。だから、デザインに境界があるなどという考えは、それ自体がナンセンス。デザイナーは、あらゆる分野をデザインしなければならないのです」
via. 『Pen 2010年 6/15号』, P.80
”現代は戦争や貧困、環境の危機に直面しているというのに、それらに緊急に対応するためのベストな道具をデザインが生み出しているとは、私には思えない。”
「(デザイナーを辞めるという)発言の真意が、報道によって歪曲されてしまったようですね。私は、いまのデザインが明確な役割を果たしておらず、使い物になっていないと言ったのです。ある時代、ある瞬間において必要とされる道具があり、それが発展して文明が誕生します。デザインは、そのために効果的に働き、生み出されていかなければならないのです。しかし、現代は戦争や貧困、環境の危機に直面しているというのに、それらに緊急に対応するためのベストな道具をデザインが生み出しているとは、私には思えない」
via. 『Pen 2010年 6/15号』, P.80
”常に心がけていたのは、アートの哲学を教えるということ。”
「1980年代以降、渡しは教育者として、ミラノのドムス・アカデミーやミラノ工科大学で多くの学生を育ててきた。その間、常に心がけていたのは、デザインの技術ではなく、アートの哲学を教えるということ。大切なのは、人として独立することと、デザインの核となる創造力を磨くこと、そして人間性を養うことだからです」
via. 『Pen 2010年 6/15号』, P.76
”デザインに求められる質の高い創造。”
「個人がそういうことを認識して、いろんな分野で動き出している気配は強く感じています。小さな動きでも、結局それが世の中の歪みを矯正していくのではないでしょうか。デザインは広告で紹介されるものでも、買ってくるものでもなくて、人が毎日の生活をいかに大切に慈しむか、そういう土壌の上に育って、花を開かせるものだから、繊細で新鮮な目で毎日の生活を観察し、覚醒し、まずは自らの生活文化をきちんと耕すこと。そこから始まるような気がします。
『精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる』というサン=テグジュペリの言葉(『人間の土地』内藤濯訳)があります。生活哲学という精神の風を、人に、素材に、技術に、吹き込むことで、私たちは、初めて、『粘土の魂』や『技術の魂』を超えるものを、創ることができるのではないでしょうか。それによって、『モノ』は、便利でお得なだけではない、息遣いが聞こえるような生活の要素になるのではないかと。これからは、そういう質の高い創造が、デザインに求められる時代になるのではないかと、そんなふうに感じています。」
via. 『なぜデザインなのか。』, P264
”『感覚の平和』”
「イギリスのグラフィックデザイナーで、昨年亡くなったアラン・フレッチャーが書こうとして未完に終わった著書のタイトルは『感覚の平和』だったそうです。どんな内容かは残念ながらもうわからないけれども、この書名には大いに触発されるものがあります。その言葉を使うなら、『感覚の平和を目指して世界を調停していく力をデザインと呼ぶ』と。」
via. 『なぜデザインなのか。』, P251
”自分の人生ぐらい。”
「家での教育は、私にとっては普通でしたけれど、外から見たらきっと筋金入りのリベラルですね。自分の人生ぐらい自分で決めて、自分で責任を取るものだ。自分の判断能力を持たぬことほど生きていくのに危険なことはない、と、そういう哲学を持った、昭和一桁世代の良心に育てられましたから。」
via. 『なぜデザインなのか。』, P178
共感。
”「オレたちは子どものころからミケランジェロを見て育っているんだ。」- エンツォ・マーリ”
「ドイツは知識と技術で、イタリアは本能でデザインしている、という感じかしら。イタリアはつくづく天才の国だなと思う。突出した才能に対する敬意の払い方が尋常ではありません。一所懸命よくがんばったなんていうのは、イタリアでは評価の対象にもならない。天才が神業でゴールを決めるところに、もう手放しで涙を流して酔うんです。それに対してドイツは秀才の国ですね。知識と技術を身につけ、論理を確立して、訓練された優秀な人が多い。平均すると点数が同じぐらいになるんでしょうけれど。
でも、エンツォ・マーリのその言葉(「オレたちは子どものころからミケランジェロを見て育っているんだ。」)は重たいですね。ミケランジェロを見て育つということは、目が超えるということ。にせものでは満足できなくなることです。イタリアは『美しい bello』という言葉を、ナポリの貧民街にいる子どもでも使います。機能するだけじゃ満足しないんです、美しくないと。人の美醜にもうるさいし、数学であろうと、外科の手術であろうと、本能を満足させる芸術的な美しい解答を求める。技術だけではだめで、芸術点も高くないと人が満足しない。こういう本物を見て育っている人たちの国では、デザインはいやおうなしに鍛えられますね。」
via. 『なぜデザインなのか。』, P175
”ジオ・ポンティのような明快なヴィジョンを持つ者。”
「ジオ・ポンティのような、イタリアの手工業に対する明快なヴィジョンを持ったいい建築家がいて、弱小の家具産業を自立させるためのロードマップづくりをしっかりやった。手だけ動かしていただけのところはいま、滅びつつありますが、イタリアは未来のヴィジョンを持ってやっていたから、こんな時代になっても強い。」
via. 『なぜデザインなのか。』, P172
”イタリア人の手、日本人の手。”
「イタリア人の手というのは、頼まれた以上のものをつくる。だからすごい。それは日本人の手も同じです。いい職人の手はおしなべてそういうものなのかもしれませんが、手の中に脳みそが入っている。こうした方がもっとよくなるだろうというものを生み出すことに快感を感じている職人さんが、イタリアにはたくさんいる。もちろん戦争のあと、残ったものでなんとかしなきゃということで発揮された部分も大きいと思いますが。」
via. 『なぜデザインなのか。』, P171-172
”何人もでシェアをすることが原点。”
「ええ。いま私がベルリンで住んでいる築五〇年の集合住宅には、各建物に共同の洗濯場がついています。同じ時期に郊外につくられた、ル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンもそうです。そこに洗濯機も乾燥機もあるから、家の中に洗濯機を持たなくていい。毎日使うものはともかくとして、そうでないものは共有することで、自分の家の中にすべて持ち込まなくてもすむ。あのころの建築家というのは、一応はみんな社会派ですから、都会に人が集まって気持ちよく暮らすためのルールをきちんとわかっていて、それが、建物の中にデザインしてあるんですね。
一家に一台、一人一台っていうのは、かつては大量生産、大量販売の目標だったかもしれないけれど、これからは一人一台の安物を買わせるのではなくて、値段は高くても、質のいいもの、長持ちするものを、何人もでシェアをすることが、本当に高級なものをつくる、あるいは所有できる原点になるのかな、と思っています。本当に質のいいものは、そう安くは作れないからね。」
via. 『なぜデザインなのか。』, P135-136